ままならない

オタクはしんどい

認知ってなんぞや

 

このブログを始めたきっかけは、「推しから認知されたい」系の記事を読んだからである。

推しの数だけ求める認知が違うとはこのことかとびっくりした。わたしの周りにはどっっぷり若手俳優に夢中な人はいないし。せいぜいゲームの課金兵ぐらい。なので、せっかくだからわたしの「推しからの認知」についても書いてみたい。

 

まず、前提として申し上げると、わたしはそこまで推しへ全力ではない。え、お前それ推してるって言えると思ってんのか、とのつっこみはごもっともです。

地方住みなのも大きいが、金銭的に余裕がないので全通はまず無理だし、それこそグッズ代だってそんなに出せない。いや、もちろんできる限り購入するけれど、推しはそれこそ若手俳優界隈ではそれなりに人気だし、わたしの他にもごまんとファンはいて、それこそ手紙もプレゼントもリプも何も送っていないわたしは、推しにとっては「顔も名前も反応もわからないけれど、SNS上の数字でみえる大勢のファン」の一人なのである。そしてわたしは悲しいのかめでたいのかわからないけれど、この立ち位置にまったくなんの不満もない。むしろ丁度良いとすら感じている。

 

だって、推しには綺麗なものだけを見ていてほしいのだから。

 

こう書くとある意味ほんとうに気持ちが悪いのだけど、わたしにとって推しは崇高な存在なのだ。わたしごときがおいそれと接触していいと思えないのだ。推しにはわたしというどこにでもいる平凡な、つまらなくて生産性のない日々を送っている人間のことなんてみてほしくない。そりゃ、いつも応援してくれてありがとう、みたいな発言には心踊るし、FCでしかみれない一面をみると幸せな気持ちになれるけども。

誤解しないでいただきたいのは、こういう考えだからって、「接触系イベントやファンサを求めている人たち」のことを理解できないわけじゃないことだ。

前述した通り、求める「認知」はみんなちがう。りあこだって大勢いるだろうし、実際に推しとどうこうなりたかったり、そこまでいかなくても顔と名前は覚えてほしいって人もいるだろうし。その願いを叶えるためにする努力を否定する気は毛頭ない。むしろすごい。わたしは天変地異がひっくり返ってもできない。ぶっちゃけ羨ましい。

 

手紙を書こうと思い立ったこともあった。接触するのは絶対嫌だけど、手紙なら姿も見えないし。名案かもしれない。そう思って何度も文章を考えたけど途中で何を書きたいのかわからなくなってしまうのだ。観に行った舞台の感想を書こうにも双眼鏡からのぞいた推しの横顔が美しかったことしか記憶にない。というか、舞台の上で全身全霊で演じきっている姿をみてしまったら、わたしは推しというより推しが演じるキャラクターに夢中になってしまう。

推しのことも好きだけど、推しが演じているキャラクターのほうが好き。要するに舞台の上にいる推しへの好意が9割で、普段の推しへの好意が1割。なんとも面倒臭い。お前はほんとうに推しのことが好きなのかとわたしも自分に問いたい。けれど、やっぱり推しの演技は最高なのだ。推しより演技の上手い役者さんはたくさんいるし、顔の綺麗な人もいる。でもわたしは、推しのひとつひとつの言動に意味を持たせる役作りの深さだとか、変化球のアプローチだとか、本当はしっかりした舞台に出たいだろうに腐らずにひたむきに仕事をしている姿に魅せられているのだ。

結局わたしは、推しのファンというよりは、推しが作り上げるキャラクターを見ていたい観客なのだと思う。うまく言えないけれど、推しに求めているのはファンサではなくて、完璧に作り上げられた役を演じて板の上に立っている推しの姿なのだ。自分でも何を書いているのかわからなくなってきた。

 

まあだからといって推しのSNSはどうでもいいのかといわれるとそれはまた違う話なのです。ブログだって更新されるたびに読むし、SNSにはいいねもするし画像だって保存しちゃう。もはやいつものことすぎて異常性に気づいていないけれど、ファンなら当たり前だろってね。だって推しですからね。

 

結局認知の話から外れてしまったような気もするけれど、まとめると「推しはきれいなものだけをみていてね。そして気が向いたときにでいいので感謝の言葉をください。でも一番はいつだって最高な舞台でわたしを夢中にさせてください」ってことですな。最高なパフォーマンスがもらえるなら認知なんていりません。みたいな。はーこれはこれでこじらせオタクの深い深い業ですね。

 

ももし電車なんかで推しを見かけたら、迷わずガン見して不自然にならない程度に近づいて、推しが降りる駅で一緒におりて、急ぎじゃないか様子を伺っていけそうだったら応援してますって声掛けちゃうんだろうなって妄想している日々。絶対ありえないけどそれもまた旨味です。