ままならない

オタクはしんどい

祖母と刀ミュとわたし

 

こんにちはわたしです。

前回記事でらぶフェス参戦の話をしましたが、出来ませんでした。ちょっと色々あったので記録の意味も込めて記事にします。

かなりプライベートな上にご都合解釈もあるので読む人を選ぶかと思います。苦手な人はプラウザバックお願いしますね。

今回は他の誰でもない、わたしのための記事ですので。まあ暇つぶしぐらいには読んでやるかという方はお付き合い下さい。

 

 

 

 

まず、大人気ミュージカルのお祭りである真剣乱舞祭in大阪城ホールにおいて、空席を作ってしまったことをお詫び申し上げます。良いか悪いかは置いておいて譲渡の選択肢もあったと思いますが、簡潔に言えばチケットを紛失しました。郵便事故です。まさここで…?とあまりのタイミングに絶望しましたが、わたしの人生的には紛失するべくしてしたんだと、今なら思います。

 

遠い地元で、87歳の祖母が一人暮らしをしていました。明るくて穏やかで、背中が丸まっているせいで身長も小学生ぐらいしかない、アイスとチョコと自然が大好きな可愛らしいおばあちゃんです。大きな病気もしたことのない彼女が突然体調を崩し、夏頃に来院したところ末期の大腸ガンと診断されました。年齢もあり、延命措置はせず、ギリギリまで介護職をしている叔母の家に引き取られることになりました。

この時点で体重はガクンと落ち、食欲もなく、いつ会えなくなるとも分からないと話だったので、お盆過ぎに会いに行きました。手足は棒のように細くなり、耳も遠く、視界外の人の気配を感じられなくなっていました。わたしの知っているおばあちゃんじゃなくなったんだと悲しくなりましたが、全身転移したガンのせいで痛む首筋を擦りながら「痛いの〜寝違えたのかなぁ」なんて言っている姿はいつも通りでした。昔からほんの少しだけ天然な人だったのです。

いろんな話をたくさんして、写真や動画を撮って、「あと1年は頑張るわ」と微笑むから「そうだよ!長生きしようね」と励まして。そうして別れました。

親族内では秋の始めが限界だろうと誰もが口を揃えていました。随分前に祖母の旦那である祖父が亡くなってますが、彼の命日と誕生日、祖母の誕生日がとても近く、きっとこの辺りだろうねと。私が帰って1カ月後には眠る時間も長くなりましたが、元々健康な人だったので予想は大きく外れ、自宅介護から病院へ移ったのは冬の始めでした。

入院して1週間後には自力で歩行できなくなり、寝たきりの生活に。当初の予定通り延命措置(例えば呼吸器を付けたり、手術をしたり)は一切せず、痛み止めだけ投与するように。祖母は子沢山な人で、毎週末になると子供に孫に曾孫にと必ず誰かがお見舞いに行っていました。遠方に住む叔父たちも会いに行き、今月の始めには全員が祖母にご挨拶をすませていました。

 

前置きがとても長くなりましたが、そんな背景もあり、11月末にらぶフェスのチケットを友人に普通郵便にて郵送しました。しかし待てども届かず、すぐに郵便事故調査を申し込みました。だけどあれってすごく時間がかかるそうで、これはまずいとわたしと友人の地域を担当しているそれぞれの郵便局に電話して確認してもらって。ダメ元でイベント主催と会場責任社に電話して入れるか確認して……どれも良い返事は貰えず、チケットを入れた手紙も見つからず。レターパックで送ればよかったと後悔で仕事も手につきませんでした。

友人に謝り倒して、わたしの分のライビュは取ってるからぜひ行ってくれ〜!と話し合いましたが、もしチケットが出てこなかったら余った1枚を誰かに譲ってユニバにでも行こうなんて話していました。それはそれで楽しいよね、今はクリスマスだしね、なんて。

 

今週の月曜日には大阪だから…と残業しようとしていたときに、親から祖母がそろそろだと連絡がありました。慌てて帰り、日曜には地元に戻ると。ただ、あんたは月曜日から大阪で遊んで来なさいと。チケットもあるし友人との予定もあるでしょと。迷いましたがせっかく友人が予定空けてくれていたんだし…と考えていると、その友人から体調不良でガッツリ遊べないとの連絡が入りました。それならいっそ、とチケットをレターパックで送り、母と共に祖母の元へ駆けつけました。

病室で眠る祖母は話すことも起き上がることもままならず、最早意思疎通は困難な状況でした。身体はやせ細り、呼吸が浅いせいでチアノーゼになり足の裏は赤黒くなり。飲まず食わずで1週間が経過。それでもバイタルや血圧は悪くなく、思わずそんなに苦しいなら楽にしてあげたい…と願わずにいられず。

母と叔母が交代で泊まり、夜通し付き添って。絶対に1人で逝くことがないよう、常に3人のうち誰かが付き添っていました。

 

亡くなる2、3日前から眠らなくなりました。薬を投与しても、背中を摩っても、何をどうやってもガラス玉のような目で天井や空を眺めて。何見てるのーなんて笑って。周囲の病室からは咳き込む声や唸り声が常に聞こえていましたが、祖母はそういうものは一切なく、ただ静かに余生を過ごしていました。

その日、有給申請が無くなるので帰るか迷いましたが、結局帰らず飛行機を今日へ変更しました。期末なので迷いましたが、なぜだか絶対に帰りたくなくて。お昼すぎに泊まった叔母と合流し、どんなに粘っても今週末だろうという話をしていました。少なくとも今日はないだろう(血圧バイタルともに変化なしだったので)、あったとしても明日ということで纏まったので、叔母は一旦自宅へ戻りました。わたしはお昼を食べたら眠くなったので簡易ベッドでお昼寝し、母が手を握りながら付き添っていました。

1時間ほど眠ったころ、ふっと目が覚めたので起き上がり祖母の元へいきました。手を握った時に、一瞬彼女の目が上を向いて。慌てた母がナースコールをして測ってもらったら血圧は60を切っていました。

午後の計測から30分も経たないうちに急変したのです。

すぐに叔母に連絡し、母と片手ずつ握りながら必死に呼びかけました。せめて叔母が間に合うまで。それまでたくさんの思い出話をして。あんなに力のなかった指先が、少しでも離そうとすると嫌がるようにぎゅっと握るのです。とても離れられませんでした。

呼吸が浅くなり始めた頃、それまで人形のようだった彼女から反応がかえってくるようになりました。なにか言えば目だけで頷いたり、おでこを上下に動かしたり、手に力を入れたり。半分空いた口をにっこりとあげて3回微笑んで。それはそれは小さな子供のようでした。最後まで静かに、誰にも迷惑かけないように。叔母が来るまで頑張ろうとしましたが、大きな息を3回して、すっと逝ってしまいました。

急変してから1時間ももちませんでした。

 

叔母が来たのはそれから15分後のことでした。その次に連絡をした従兄弟が。そこから昨日の告別式まではあっという間で記憶が曖昧です。身内が多いのでほぼ家族葬にして、賑やかな家なので明るく送り出しました。

祖母は本当に最後まで気遣いのできる人で、集まった誰もがその日でよかったと口を揃えました。それぞれの仕事が無事に片付いていたこと、このあとの予定に差し支えないこと。その日の前日でも、1日後でもなく、その日でないと全員の都合が合わなかった。亡くなった人が夢に出てくるとよく聞きますが、誰もが夢に出てこなかったそうです。きっとなんの未練もなかったからなんでしょうね。10日間飲まず食わずで、全員に挨拶を済まして、絶対に死目に立ち会わせてほしいと祈っていた私と、祖母が大好きだった母が揃うのを待っていたんだと思います。

それまでずっと付きっきりだった叔母が立ち会えなかったことにも、きっと意味があるんです。私と、祖母と、母と、叔母と。人の死に目に立ち会うということはどういうことかを学ばせていただきました。最期までありがとうねぇ。

そういえば、祖母にはたくさんのことを教えていただいていました。女の子らしくいるということ、女性として強く逞しく凛々しく生きること。戦時中のこと。結婚するということ。子供を慈しむということ。一緒に食べたアイスクリームも、よく行った温泉も。どんなに歳を重ねても孫として可愛がって貰ってました。

 

帰りの飛行機の中で書いていますが、目頭が熱くて零れないようにするのが精一杯で読み返せないので散文ですみません。しかもめちゃくちゃ身の上話だし。

 

読んでくださってありがとうございました。

そしておばあちゃんもありがとう。次も絶対血の繋がりがありますように。

明日、刀ミュのライビュを観てきます。全てのタイミングをばっちり当てはめてくれた祖母のおかげで、観れます。

藍色のペンライトをブンブン振って、全力で楽しんできます。

 

 

 

※(友人は無事に参戦出来たようです。グッズを買ってくれたようなので、後日受け取りたいと思います。本当によかった……!!)